生活の知恵袋 YOSEMITE

「役立つ話」「面白い話」「気になる話」を分かりやすく!

中島敦「山月記」あらすじと考察。人と虎、どちらが醜悪か。

      2018/07/16



中島敦の「山月記」は、高校の教科書に掲載されています。ほとんどの人が、なんらかの記憶があることでしょう。

しかし教科書に載っている、というだけで、拒否反応が起きてしまうのも確かです。それではもったいない。

大人になって読み返してみると、自分の経験とすり合わせたり、読み落としていた一文に胸を衝かれることもあります。

いい文章というのは、常に新しい発見があるものだと思います。それは自分の変化による化学反応であって、文章そのものは、なにも変わっていません。それが「古典」の価値ではないでしょうか。

「山月記」は、そんな一冊です。

Sponsored Links

あらすじ1)優秀さゆえの相克

玄宗皇帝の唐の時代、科挙に合格した李徴は、その博学さと頭の切れの良さが、広く世間に知られいてました。

ところが、もともと人となじめない性格の上、自分の能力を信じていた彼は、さっさと故郷に帰ってしまいました。自分より能力もなく俗にまみれた上司に仕えることなど、できなかったのです。

彼は詩を書いて、その名を百年、歴史に残そうとしました。しかし、名声は一向に上がりません。生活も苦しくなり、美少年だったころの面影は見るも無残に変わっていきました。


数年後、とうとう彼は妻子のために、再び地方官吏となりました。そこでの彼は、自分より劣ると見下していた連中の部下となり、自尊心をいたく傷つけられたのです。

一年たったある夜、出張先の汝水で発狂、そのまま行方知れずになってしまいました。

あらすじ2)旧友との出会い そして虎の独白

翌年、袁惨という官吏が、広東省あたりを朝早く通りかかりました。

すると一匹の虎が叢から飛び出し、袁惨に飛びかかろうとして身を翻し、元の叢に隠れました。


「あぶないところだった」という虎のつぶやきに、袁惨は、李徴の声と確信しました。

李徴にとって、温和な袁惨は、数少ない友人だったのです。袁惨は素直に友との再会を喜び、李徴もまた、この友人に虎となった経緯を語ります。

一年前、夜中に誰かに呼ばれたこと。その声に招かれて山を走っていくうちに虎になっていたこと。自分は懼れ、死のうと思った。しかし、目の前に飛び出した兎を見ると、人間の心は消え、兎を食べた。

虎になっても一日のうち数時間、人間の心が戻ってくる。


そんなとき己の残虐な行為と運命を振り返って、恐ろしく、憤ろしくなる。そのうち人間の心は、獣としての習慣に埋もれてしまうだろう。そのほうが幸せになれるだろう。

だが、それがとても恐ろしい。自分が人間だった記憶が無くなるなんて。

あらすじ3)虎になった李徴の願いと自戒

李徴は、旧友、袁惨に、頼み事をします。袁惨の律儀さを知っているからこそです。自分が心を狂わせてまで執着した詩編を、後世に伝えてほしい、というのです。

袁惨は、部下に虎の暗唱する李徴の詩編を書き取らせます。袁惨は、その詩にはどこか欠けたものがある、と感じます。

なぜこんな運命になったのか、李徴は思い当たることを、袁惨に語ります。詩を極めようとしながらも、師に就くこともことも、誌友と切磋琢磨することもしなかった。


臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせいである。この尊大な羞恥心が、おのれの虎だったのだ、と。才能のないことが露見してしまうという卑怯な危惧と、刻苦をきらう怠惰。それが俺だ、と。この空費された過去を誰かにわかってもらいたい。

しかし、月に咆えても懼れられるばかり、、

最後に、李徴は「妻子の面倒をみてほしい」と、頼みます。そして自分が虎になったことなど、決して明かさないでほしい、と切に願うのです。李徴の願いをすべて叶える、と約束した友に「帰りには、ここを通るな、そのときは襲い掛かる恐れがあるから」と、言います。

そして、もう一度「我が醜悪な姿を見せよう」と、離れてから姿を現し、咆哮して叢の中に入っていきます。

説明不要の明晰な文章の背景に、漢字の力

この文章の特長は、意味の明確さにあると思います。それは漢字の使いかたにあります。漢字は「意味を表す文字」です。説明は要りません。物語のポイントがしっかり漢字で示されていて、迷いがありません。

34歳という若さで死んだ作者、中島敦は江戸時代から続く儒学者の家系です。漢文には、幼いころから馴染んでいたことでしょう。


この小説の、人が虎になるというテーマは、中国の説話集「人虎伝」によるものだそうです。しかし、素材になった説話と異なるのは、「虎になった理由」。ここが、作者のテーマとなっています。

それをズバリと言い切っているのが「臆病な自尊心」そして「尊大な羞恥心」。この言葉は対義語の組み合わせです。

一見すると「臆病」と「自尊」、「尊大」と「羞恥」は、共存しないように思われます。

しかし、そうした矛盾こそ、人が抱える問題なのだ、と気づきます。自己矛盾には、みな苦しんだ経験があるはずです。

「人は誰でも猛獣使いである」という李徴の独白も、それを指しているのでしょう。


さらに面白い組み合わせが「卑怯な危惧」です。ひとはみな、危惧の念を少なからず持って生活しています。ただ、それが「卑怯」から生じたものではないか、という問いは、鋭いものです。

自分のなにかが損なわれることを心配するのは、卑怯だ、と断じています。孔子の「仁」という言葉は、まさにそれではないでしょうか。

本文にあたると漢字の持つ訴求力のすごさを、味わうことができます。
Sponsored Links